藻澄川

1
その川は街の真ん中を流れていた
 
川の名前は藻澄川というものであったが、
誰もその名前を知りはしないし、また興味も抱かなかった
 
緑の藻が浮かび、ただあてもなく流されていく黒ずんだ川は
人々の興味を引き付けるにはあまりにも特徴がなかった
 
 
ただ昔一度だけ、ここで死んだ男の遺体が浮かんでいるのを発見された時には
その川のことがお茶の間で少し話題になりはしたが、
人々の興味はやがて日常のこまごまとしたこと
政治やら高騰する野菜の値段やら誰と誰が不倫しているかなどの話題に埋もれていった
 
最初のうちこそは、その遺体が発見されたそばに
遺族からかの献花が供えられていたが、
心無い人たちによってその花も荒らされると
その習慣も途絶え、もとの特徴もない川へと戻っていったのだった

 
 
 

2
慶次は川に沿って家路を進んでいた
 
長々と続くアスファルトの道路は、
真夏の昼の太陽の光を浴びて
空気すら燃えつくさんとばかりの熱を放っていた
 
 
熱せられて湯だつ空気は、ゆらめきの中にうつろい
蜃気楼よろしく都会の建物や人々を幻かのように演出する
 
 
溢れ出る汗をぬぐいつつ、慶次は毒づいた
 
こんな酷暑の中に自分を買い物に行かせた姉への侮辱もそこにはあったが、
まずなにより彼にまとわりつく汗で湿った服と刺すような日差しが
彼を苛立たせたからだ
 
 
なんでこんなバカみたいに暑い中を外出せねばならんのだ
自分を買い物に行かせた姉は、エアコンの効いた部屋で涼んでいるというのに
 
 
猛暑で苛立つけいじの横を、浴衣姿の少女が何人か通り過ぎていった
 
 
そうか、、、、
そういえばそろそろ祭りの時期、、
 
 
街のいたるところにちょうちんが吊るされ
公園にはおどりの舞台が立てられ
店には焙烙とおからが並べられ
灯篭の準備が進む
 
 
お盆が近づいてきた

 
 
 

3

「今帰った」

慶次が玄関を開けると、家の奥の方からぶっきらぼうな声が返ってきた

「慶次、頼まれたものはちゃんと買ってきたんだろうね」

「あぁ、多分ね」

「多分ってなんだよ
無かったらもう一度買いに行かせるぞ」


慶次はそのまま部屋の奥へと進んでいく

「姉ちゃん、俺にもアイス」

「勝手に探しな
私はお前のお守じゃないんだよ」



冷蔵庫を開けると、ひんやりとした冷気が
けいじにまとわりついていた熱を吸い取っていった

アイスを探し、部屋のソファーでくつろぐ

そのままぼんやりしていると、
声の主が入ってきた

茶色の長髪を腰まで伸ばしている、25.6歳くらいの女性だ

「慶次、買ってきたものは?」

慶次は振り返りもせず、床に置かれた買い物袋を指さします

「あんたねえ、少しはちゃんとしなさいよ
もう働いて自分でお金稼げる年なんだから、ここから追い出してもいいんだよ」

「迎え火はいつやる?」

「暗くなったら!
それまでに自分の部屋位掃除しときなさいよ
あと、自分が食べた分の食器も自分で洗っておいて!」

慶次はあいまいな返事で返すと、最後のアイスの一かけらを頬張り
そのまま虚空を見つめ続けた


「私はこのままバイトに行くけど、
もし私が帰ってくる前までに部屋と食器が片付いてなかったら
覚えときなよ」

そのまま荒々しく部屋のドアを閉めると、
玄関が閉まり、遠くに遠ざかっていく足音が慶次には聞こえた


エアコンから出る冷気が、
ソファでだらける慶次を冷やしていく

やがて、襲ってくる睡魔に耐え切れず
慶次は眠っていった

 
 
 

4

そっと忍び寄ってきた夏の夜は、
暗がりの覆いを街全体に優しく被せた

昼間の活気を蓄えた建物も、
ふいに訪れた安らぎには抗いようがないと見えて、
少しづつまどろみの表情を見せ始める


姿の見えない精霊たちは、ひとつひとつの家々の玄関をノックして
生気に満ちた昼の時間は終わりを迎えたことを知らせる


街は、夜に、沈んでいった


慶次は家の玄関の前で火を焚き、
組み立てたおがらにその火を燃え移らせた


火が広がり、その明るさで玄関前を照らす

「慶次、手際よくなったじゃん」

「もう10回はやってるからな
そりゃ上達するさ」

燃え広がったおがらは、熱さに身をよじらせて踊り狂い
少しづつ、物言わぬ灰へと変わっていく

2人とも、ただじっとそんな火を無言で見つめていた


「なあ、姉ちゃん
聞いていいか」

「なんだい?」

「おやじとおふくろって、どんな人たちだったんだ?」

「、、、珍しいな
あんたがそんなこと聞くなんて」

「いや、、、
少し気になって

俺ほとんど2人のことを何も覚えてないからさ」

「2人ともいい人だったよ
私が仕事を見つけられるよう、あちこち探してくれたんだ

私も15年、お世話になったからね」

「俺は5年だけだったな
一緒にいられたのは」

「5年も一緒にいることが出来たと思いな」


迎え火の明かりは少しづつ消えていき、
そのうえで踊り狂う木片もしぼみ、わずかな火種を残すのみとなった


慶次は、用意してあったバケツをとると
中の水をわずかな明かりとなった火にかぶせた

ジュっという音がして、煙が漂う
燃え尽きたおがらの匂いが鼻を突く

「2人とも、この家見つけられただろうか」

「あんたがそんなにセンチだったとは知らなかったな」

「さあ、、、、なんでだろうな」


「私はまた出かけてくる
出来の悪い弟のためにも、たくさん稼がないといけないからな

あんたはどうすんだ?」

「俺は、、、少し散歩でもするよ」

「そうかい、まあ、気をつけな」

 
 
 

5

慶次は、どこに行くという当てもなく
ただ街中をぶらぶら歩き続けた

街中ではちょうちんが暗闇の中に怪しく佇み、
その白い羽を通路の隅の方まで広げている

羽は何層にも重なり合い、
濃淡の入り混じった光の模様を地面に描き出していた


ふと遠くの方へと目をやると、
真っ暗な夜空の中で、数えきれないほどの巨大な光の塊が中天に向かって昇っていくところだった

光の塊は、それが意思を持つものであるかのように
海の中漂う海月よろしくゆらゆらと揺れていた


、、、、、灯篭か


川に流された灯篭の光が、真っ暗な夜空に写されて
人魂のように雲に映えているのであろう

天空から地上へと、
束の間の再会を求めて帰ってきた祖先の人たちの魂のように




慶次はしばらくその様子を眺めていたが、
やがてその巨大な光の塊の方へと歩いていった

 
 
 

6

音もなく流れる川の音が、
慶次をそっと包んだ

踏みつけられてまき散らされた草木の汁の匂いで、
慶次は自分が大きな川の前に来ていることが分かった



遠くに見える中天辺りを漂う灯篭の明かり以外は
一切の光もなく
虫の音すら、まったく響かない

恐ろしいほど、静かな場所 



まるでここが、黄泉の国であるかのようだ



生きているものは誰もおらず、
ただ亡き者たちの魂だけが堂々巡りを繰り返す

死んだ者たちだけの国



慶次は、川の手すりに身を預けて
遠くに見える灯篭の明かりをただ眺めていた


灯篭の光はあてもなく天を彷徨い、
虚空に月のような光の塊を埋め込んでいく




どれほど時間がたっただろうか
虫の音が空を満たし、川から立ち昇る蒸気が鼻をつく




突然、誰かがスイッチを切ったかのように

天に浮かんでいた明かりが消えた

虫の音も消えた

川の香りも消えた


慶次は、虚無の闇の中に浮かんでいた

最初慶次は、灯篭流しが天に映らなくなったのかと思った
しかし、すぐにそうではないことに気づいた

なぜなら、音も香りも、真夏の夜のけだるい熱気さえ
急に退いていったからだ


そして、、、
寒かった
氷水に突っ込んだかのように


そんなはずはない
8月の夜に、寒さを感じるなんてありえないのに


鳥肌が立ち、冷気が肌を嚙む



すると、何かが慶次の身体を強く引っ張った
空に投げ出され、硬い何か(地面だろうか)がしたたかに彼を打つ

再度彼の頭を硬いものが打つ
まるで、坂道を転がり落ちているかのようだ


何かが、上半身を嚙んだ


いや、違う
川に落ちたのか

冷たい、真冬の川のような水溜りに



その時、慶次は気づいた


何かが、そこにいる