人と人がつながりあうのって難しいよねって話 3章

3-1

人とルール(大文字の他者)は、互いに望み(対象a)を通じて規定しあっている

先に言ってしまうと、
これがこの節でのメインテーマ・結論です

順番に見ていきましょう

僕が考えたことはこうです

言葉は、それを話す人がいるから存在していけるわけです

そしてソシュールは人を「言語に縛られて、それを変える力を持たない無力な存在」ととったけれど、
でももしかしたら人にも意図をもって客体を変えることができるんじゃないの?
ってことです

ここについてはソシュールも言ってるんです

「言葉内での区別により、その言葉の意味が決まる」

つまり、前に言った「言語には区別しかない」というものですけれど

つまり、人が言葉の区別を作り出すことができれば
新しい考え方を「人工的に」作り出すことができるのではないか

こういうことです

そして
新しい考えを作り出す、ということは
新しい世界を作り出す、ということでもあるんですけれど

互いに異なる「犬」と「狼」ということばがあるから
互いに異なる「犬」と「狼」という考えが生じ、
「犬と狼とがいる世界」が僕たちの前には開かれるわけです

そして
もし「狼」ということばがなくなれば
今の「犬」と「狼」の考えは、すべて「犬」という考えにまとめられ
「犬しかいない世界」が現れるということです

新しいことばの区別を作りだすことができれば、
それに合わせた新しい考えが生じ、
新しい世界が生じる

つまり、新しい「大文字の他者」を作り出せるのではないか

で、このような、人が持つ力として、
人が自らを言葉内(秩序内)で表現することによって、
場合によっては言葉(秩序)の区分を作り変える力を新しく「個人性」
言葉(秩序)に参加する力を新しく「集団性」と呼ぶことにしましょう

「犬」と「狼」という昔からの言葉の区別がある世界に、
人は集団性の力によりその世界になじむことで、
「犬」と「狼」とがいる世界が現れてくるんですが、
その中で人が「狼」という言葉を、意図をもって個人性の力によりその世界からなくすことができたら、
「犬」しかいない世界が現れてくるんです

ソシュール自身も、「人が言葉を作り出す力」を考えているんですけれど
それとは違います

というより、そのソシュールが考えたその力をさらに細かく分けたわけです

ソシュールが考えた、言葉を作り出す力はここでの「集団性」の方、
人が言葉に参加する力です

ソシュールは、人に言葉を変えることはできない
と考えていたわけですからね

ここでの個人性の力とは
「人が自らをルール内で表現する力、
そして場合によってはそのルールを作り変える力」です

集団性の力に、言葉やルールを作り変える力はなく、ただ参入するだけです

3-2

で、ここまで来たんですけれど、

なんというか、ごちゃごちゃしててわかりにくいんですよね

最初ってだいたいこんなもんだと思うんですけれど

前例のない、初めてのことですからね

今まで僕が考えてきたことを

もっとこう、シンプルに表現できないか

それを考えてた時にですね、「!!!」という感じで閃いたんです

僕は趣味で占星術を調べていたんですが

そのホロスコープっぽくすればわかりやすいんじゃないか、とね

つまり、こんな感じです

この図では、
内側の円が人そのものの考えなど内なる世界を表し
外側の円が言葉の区別や秩序などの外なる世界を表しています

そして、その2つの円と円とは(内なる世界と外なる世界とは)
互いに線を通じて、1:1に対応している(互いに規定しあっている)

その1:1の対応を成り立たせるのは
先に述べた個人性(図中の右向きの矢印です)と
集団性(図中の左向きの矢印です)の
2つの力によります

そして、その外側(2つの円から飛び出している線の部分とさらにその外側です)に、
世界(真理)が
人と言葉との1:1の対応・規定しあう、
まさにその関係に合わせて現れてくる図を示しています

内なる世界にいる人は、
その外にある外なる世界が「犬」と「狼」という言葉の区分がある世界なら、
その人にとって世界には真理として「犬」と「狼」が存在するのでしょうし

もし内なる世界にいる全く同じ人でも、
その外にある外なる世界が「犬」という言葉の区分しかない世界なら、
その人にとって世界には真理として「犬」しか存在しないでしょう

ソシュールは、人に言葉を変える力はないと考えていたので
ソシュールの考えを表すには図中の左向きの矢印(集団性の力)だけで十分ですが、
僕は人にも言葉や秩序を変えれる力はあるのでは?と考えているので
右向きの矢印(個人性の力)も必要なんです

つまり、ソシュールのいったように
言葉の区別(外側の円です)によって、
人に考え(内側の円)がもたらされ
(集団性の働きです、図中の左向きの矢印)
そしてそれによって世界(真理)が現れてくる面もあるだろうけど

人の考え(内側の円)によって、
言葉の区別(外側の円)に変化を及ぼし
(個人性の働きです、図中の右向きの矢印)
そしてそれによって世界(真理)が現れてくる面もあるのではないか?
ということです

ソシュールの考えでは、集団性の力しか考えていないので
内なる世界である人は、
もし外なる世界が「犬」と「狼」という言葉の区分がある世界なら、
「犬」と「狼」がいるという世界の真理をただ受け入れるしかないけれど

個人性の力を認めるのなら
内なる世界である人は、その力により
たとえその外なる世界が「犬」と「狼」という言葉の区分がある世界で、
「犬」と「狼」がいるという世界の真理があろうとも、
その外なる世界に働きかけ、「狼」という言葉の区分をなくし
「犬」しかいない世界の真理を作り出すことができるのではないか

で、
この図で問題ないといえばないんですが
ただ、これだと対象aが表せないんですよね

なので、もうひとつだけ図を導入しましょう
こっちのほうが今後は分かりやすかったりします

ほとんど意味は変わりません

ラカンが考えた図を少し僕流に書き直したものです

思い返してみると
ラカンは、人は「大文字の他者」(ルール)に参入することで、
「対象a」という、その大文字の他者内のみで通用する望みを持つと考えたわけです

例えば人が
お金のやり取りによって物を手に入れることができる資本主義社会という
「大文字の他者」に参入すると、
その人はただの紙切れであるお金を欲しがるようになる(「対象a」を持つ)ということでした

つまり、対象aは
人と大文字の他者との関わりの中で生じるのでした

この図では
左の円は人の内なる世界を表しています

前の図での、内側の円とほぼ同じですね

それで、右側の円が言葉やルールなどの外なる世界「大文字の他者」を表しています

前の図では、外側の円で表されてました

同じく図中の右向きの矢印は個人性の力を、
左向きの力は集団性の力を表しています

そして、ここが違うのですが、
ふたつが交わってる図中の斜線の部分
ここが「対象a」なわけです

最初の図と比べて
「対象a」という、人が「大文字の他者」と関わることによって生じるその存在の特徴が
わかりやすくなったかと思います

そして、その対象aを通じて
人は外なる世界の向こう側の世界(真理)を感じるということです